ヤマトプロレタリアートは沖縄「独立論」を無条件支持すべきか
早瀬隆一
199号(1998年3月)所収
この間の渋谷さんと流さんの論争(194号〜198号)において、沖縄「独立論」に対する態度の問題が取り上げられている。抑圧民族たるヤマトプロレタリアートが取るべき政治的態度の問題である。両者の主張は「沖縄『独立論』を無条件に支持すべき」との一点においては最終的に一致している。しかし本当にそうなのだろうか。私は両者の結論とは意見を異にする。両者の主張には“民族自決権の承認”を巡る混乱があるように思われるのだ。以下、初見の読者のために両者の主張を引用したうえで、私の意見を述べさせていただくこととしたい。
<流広志 194号文書>
一昨年来の沖縄の米軍基地・施設撤去闘争の中で再注目されている沖縄「自立・独立論」については、抑圧民族たるヤマトプロレタリアートの立場を踏まえ、最も民主主義的な内容を持つ限りにおいてはこれを支持することが必要である。
<渋谷一三 197号文書>
「沖縄『自立・独立論』については、抑圧民族たるヤマトプロレタリアートの立場を踏まえ、最も民主主義的な内容を持つ限りにおいてはこれを支持することが必要である。」というのは、明らかに間違いです。抑圧民族であるということを踏まえるならば、無条件に支持すべきです。
<流広志 198号文書>
沖縄「自立・独立論」についてはご指摘のとおりで、お詫びし訂正したいと思います。これは自立論と独立論とを一緒くたに評価しようとしたことからする間違いでした。独立論については無条件支持です。「自立論」も「最も民主主義的な内容を持つ」ことになればそれは「独立論」に転化することに他ならないのですから。
ご覧のとおり、両者は「抑圧民族であることをふまえ、沖縄『独立論』を無条件に支持すべき」と述べている。しかし、私は、沖縄「独立論」の「無条件支持」が、ヤマトプロレタリアートの取るべき態度だとは考えない。沖縄の独立を要求するか否かは、沖縄の人々の自主的な論議と決定に任せるべきである。
被抑圧民族の民族自決権に対して、抑圧民族プロレタリアートの取るべき態度は、民族自決権を無条件に承認することである。「民族自決権」が「独立」と同義であり、「承認」が「支持」と同義であるのならば私と両者に意見の相違はない。しかし、「民族自決権」は「独立」と同じではないし、「承認」と「支持」も同じ内容ではない。被抑圧民族の民族自決権とは、彼らが独立するか否かを彼ら自身が自主的に決める権利である。すなわち分離・独立の自由である。そこには独立しない自由も含まれている。他方、沖縄「独立論」とは、沖縄の人々の中に生まれている特定の方針であり主張である。この被抑圧民族内部にある特定の主張を支持すること(=賛成し援助すること)と民族自決権を承認することは全く別の事柄である。抑圧民族プロレタリアートは被抑圧民族の分離・独立の自由を無条件で認めなければならない。しかし、それは独立の主張を支持することではない。
このことは、プロレタリアートの求めるものが、諸民族の自由意志による結合、真の平等に基づく諸民族の融合であること、このことを考えてみればすぐに分かることである。歴史的現在的に形成された民族的不信や民族的摩擦を払拭し、諸民族の融合を実現していくためには、民族間の同権の実現とともに、「国境の決定や分離の自由にいたるまでの民主主義」を実行することが必要である。分離・独立の自由−民族自決権の無条件承認は、諸民族の融合を獲得していく条件としての実践的態度の問題に他ならない。
敢えて「独立論」自体に対する態度を言うならば、独立するか否かは沖縄の人々の自主的な決定に任せることを言明したうえで、独立の主張の立ち現れに対しては、これを承認し受け止めていくことであり、自らの意見については個々具体的な主張に則して率直に述べていけばよいのだと思う。むろん、抑圧民族プロレタリアートとして分離・独立の自由と同権を実現すべく闘っていくことは前提である。
(付記)
本文書は、被抑圧民族の民族自決権を巡る原則的問題という位相において述べたものであり、それ以上のものではない。すなわち、今日沖縄において現実に現れている「自立・独立論」に接近していくことを目的とした文書ではない。
本文書においては、この文書性格上「独立論」の個々具体的な主張内容に踏み込むものではないため、沖縄「独立論」と一括しているが、現在沖縄で語られている「独立論」は、その主張内容において多様であり、決して一括りに出来るものではない。「自立論」もまた同様である。むしろ、広範な人々が「自立・独立」を巡り一人一人の主張を述べ論議が展開されていること、その百花斎放といえる状況こそ今日における沖縄「自立・独立論」の現れの特徴であり、それが豊かさや可能性となっていると言える。
今日的に現れている沖縄「独立論」「自立論」に接近し受け止めていくためには、個々の主張内容を具体的に見ていくことが必要である。そうした作業の必要性を提起しておきたい。ここでは、多様に現れている「自立・独立論」の中には、必ずしもヤマト−沖縄という抑圧−被抑圧関係に根拠を一元化できない文脈も見受けられること、「独立」が日本国家からの分離・独立であっても必ずしも「独自の国家建設」に重点が置かれているわけではないこと、つまり、そこには、国民国家という枠組み自体への批判や違和感という今日的課題が組み込まれており、国家や政府に依託することなく自らの社会を自らの手で創り上げていきたいという志向が前面に登場していること、これら諸点について注目を喚起しておきたい。
(注1)
両者の主張は「沖縄『独立論』無条件支持」との一点においては一致しているが、その理由については異なっているように推察される。流さんの場合にはそこに特別の論理が加えられている。これは2重の混乱に思える。流さんにお聞きしたい。何ゆえ、いかなる根拠において、「『自立論』も『最も民主主義的な内容を持つ』ことになればそれは『独立論』に転化する」のであろうか。私には理解不可能である。「独立論」とはそれほど「民主主義的な内容」を持つものなのだろうか。あるいは「現在沖縄で語られている独立論」が最も民主主義的な内容を持っているということなのだろうか。むろん、「分離・独立の自由」は最も民主主義的な内容を持つ権利である。しかし、「独立論」が最も民主主義的なものだと言うことは出来ないし、「自立論」に比べて民主主義的だと一般的に言うことも出来ないと思うのだがいかがなものか。
(注2)
誤解なきよう注釈を加えておくならば、被抑圧民族の分離・独立の自由は、民族間の同権が実現していない場合に限り認められるというものではない。同権が実現される以前においても、同権が実現された後においても、分離・独立の自由は認められねばならない。
(注3)
そもそも、沖縄の人々の中に「独立論」が生じていることは、ヤマトの諸運動にとって必ずしも喜ばしいことではないはずである。抑圧−被抑圧という民族間の関係の観点からみるならば、「独立論」が生じている主要な根拠は、沖縄−ヤマトの間に同権が実現しておらず、同権に向けた歩みや姿勢が全く見られないからである。その意味において、「独立論」の生起は、ヤマト政府への期待はもとより、ヤマト諸運動との共同の営為により同権を実現していくような展望を、沖縄の人々が最早持ち得ないことの表明である。三下り半を突き付けられているのは、ヤマト政府であるとともに我々でもある。我々ヤマトプロレタリアートに求められているのは、分離・独立の自由を実現していくとともに、「独立論」の根拠たる同権の不在という現実を見据え、同権の実現に向けて闘うことである。