共産主義者同盟(火花)

渋谷氏の批判への返事

流 広志
198号(1998年2月)所収


 昨年『火花』194号に掲載された拙稿『新ガイドラインはアジア太平洋地域の真の安全を実現できない』に対する批判がありましたので,これに出来る限り答えたいと考えます。
 渋谷さんも周知のとおり,「新日米防衛指針(ガイドライン)」は,周辺有事における日米共同作戦体制を具体的に整備・規定するものであり,具体的な戦争準備に他なりません。これまででも,それについての研究はされており,今回の動きはいよいよこれを公然化する動きではありますが,以前と状況が異なることの一つは,社会党が渋谷さんの言葉で言えば「抽象的安保廃棄論」から私の言葉で「観念的安保肯定論」に衣裳替えをしてしまったことがあります。私は,ブルジョアジーのリアリズムというものは,自己批判がない限り,本当のリアリズムではないと考えているので,渋谷さんの指摘する朝鮮民主主義人民共和国(以下「共和国」と私は呼ぶことにします。これは金政権を認めるとか認めないとかいうこととは関係なく,朝鮮半島北部に政治実体としての国家が実在するということを反映した表現と考えるからです。この名はイデオロギーにまみれていますが,それでも現にそこにあるものをあるものとして人々に認識させるという意味で,リアルな表現であろうと考えます。それについては1980年代後期に,南朝鮮という言葉をやめ韓国と呼ぶことにした時の議論を思い出してみて欲しいと思います。あってはならないというべき論から現にあるものをないかのように振る舞うことになりかねないという思いから,こう呼ぶことにするのです)が「やけくそ南進」の可能性があるかどうかについてのブルジョアジーの物語についてまともに取り上げることがプロレタリアート側からする安全の方策の議論の深化と発展に寄与するものとはどうも思えないのです。これは「狼少年」になりかねませんし,むしろこうした物語を利用して別のこと(差別排外主義を煽るといったような類のことなど)をしている連中を活気づけることを心配します。私の回りでも,右派などの流すこうした類の話を取り上げて,危機感を煽っている人がいたので,その人物と話してみると,日米安保条約や日米安保体制や「新ガイドライン」についてもよく知らないのです。このような無知につけ込んでいるのが,ブルジョアジーとその政府であり,右派勢力なのです。「新ガイドライン」が「戦争マニュアル」であることを知って,なおかつこれを積極的に肯定できる人が多数を占めることはまず不可能でしょう。その人物も,ついに,よくわからない,戦争はいやだと考えを改めてしまいました。「ノドン」が飛んで来ようと飛んで来まいと日本は滅びるのだと言いました。これは今日の右派勢力による草の根浸透作戦が案外,表層にしか浸透していないことの現れかも知れません。わざわざ新聞などに投書したり電話したりするのはかなり意識的に動いている連中で,これはどうみても少数者です。しかし全体的なムードとしてそうした見せかけを作り出すことはある程度可能には違いありません。
 私はこうしたブルジョアジーのリアリズム,これはリアリズムの見せかけを見せかけとして暴露することが有効であろうと思います。それをするためには,唯物論をもっと発展させ,より研ぎすまされたプロレタリアートの哲学的「武器」としていくことが必要だと考えています。
  
 順番が逆になりましたが,「新ガイドライン」の制定を急いだのは,沖縄の基地撤去闘争によるのかという点については,この時期に,たとえば,アメリカ側でも日米安保解消論が紹介されたり,ハワイ州知事の基地受け入れ表明などがあり,またヤマトへの基地施設移転が取り上げられていました。日米安保条約を廃棄し日米平和友好条約を締結すべしという意見もあります。結局,この問題については,SACOに一任の形となり,とりわけ大田知事や県当局が,それを受け入れてしまったために,普天間基地と辺野古への移設という事態になったわけです。SACOの最終報告を見れば一目瞭然ですが,これは基地の沖縄でのたらい回しで,大田知事や県の立場としては,安全保障政策は国家−政府の専管事項であるという梶山発言の理屈を正面切っては否定できない立場なわけです。加えて歴史的には,アメリカからの沖縄の日本への「返還」が,沖縄の人々の常時戦争体制から「平和憲法」を持つ少なくとも理念的には平和体制下の日本への「復帰」を自発的に望んだという事情も影響しているということもあるかと思います。しかしそうした思いが裏切られ続けてきたことが,一昨年来の沖縄での米軍基地撤去闘争の高揚の背景にあるといえるでしょう。
 安保容認の立場から沖縄の米軍施設基地撤去を現実に可能とする方策として民主党が提案しているのは,いわゆる「常時駐留なき安保」というものであり,米軍施設基地の他国への移転です。民主党はこの移転がアメリカの領土内への移転であるということを前提していますが,そしてそれはハワイ州知事の基地受け入れ発言もあり,現実的と見えたのです。ところで本当にそうか? 本当に自国に軍隊を移転させるとすれば,アメリカの世界戦略を見直さざるを得ないでしょうし,その際に,駐留費用を考慮に入れた上で,適当な移転先があるでしょうか? 私はこれらのことを考えてみると,まずよっぽどのことがないかぎり,米軍が沖縄を捨てることはないと判断しています。民主党の「常時駐留なき安保論」が現実的に見えてじつは現実的ではないというのはこうした訳です。しかしそうした外交的努力はまったく無駄とは思いません。それは米軍基地撤去を実現可能とする具体的な努力の一部であるのは違いありません。しかし朝鮮半島と台湾海峡,あるいは東南アジアへの地理的条件は,アメリカの二正面戦略から推しても絶好の位置に沖縄があるのです。したがって,拙稿では,アメリカの世界政策−戦略の変更がないと沖縄の米軍基地撤去問題は真に解決することはないという意味で,アメリカの世界政策を批判しました。多額のドルを落とすので,基地返還は現実的ではないとする経済的利益を強調する返還不可能論は渋谷さんの指摘どおりに以前ほどの説得力を持たなくなっていることは事実でしょう。大田県政は,沖縄振興策を策定し,基地返還を前提とした基本計画を提示しています。名護市の場合,この県の基本計画への不満があり,それが政府の提案する地域振興策を受け入れやすくさせています。これについては,大田県政の立場で言えば,名護市を含む北部地域振興策をより厚く手直しするなりして基本計画を見直すなり,別途のプランを提示するなりの方策が考えられます。しかしそれは行政的な解決ではあっても,プロレタリア的解決ではありません。それに不必要な幻想を持つわけにはいきません。
 「新ガイドライン」を実体として考えてみると,それは戦争体制をいかに構築するかというものであり,そうした場合に平和的手段による解決をしか認めていない現憲法とはまったくあいいれません。日本は国家の基本法規である憲法が国際紛争の解決にあたって,その手段をも規定しているわけで,渋谷さんが指摘する第二次朝鮮戦争という国際紛争が発生した場合には,平和的手段しか使えないということを掲げる国家なのです。国際紛争の解決手段として武力行使を認めている国際連合とはあいいれないことを堂々と看板に掲げている国なのです。したがって,言われるように,「周辺有事」への対応としては「後方支援」に任務を限定しているわけですが,それでも国際紛争の解決手段としては武力の行使は認めていないのですから,認めていないことに自国民を前方であれ後方であれ「支援」などできようがないではありませんか。確か,日本は「法治国家」ではなかったですか? こういう堂々めぐりを続けている国が国際紛争の場に出ていったらどういうことになりますか? ハムレットは戦場にふさわしいですか? 
 日本というのは国連からしてもおかしな国家なのです。これを「国際基準」である国連のルールへの統合として矛盾の解消を主張したのが小沢一郎などであることは周知のとおりです。これに小ブル政党は動揺してしまったのです。憲法を変えないでも,軍隊を置くことは可能だし,憲法など場合によっては単なる空約束証文,一片の紙切れになってしまうことがありますし,現在の改憲論がまさに憲法を明日にでも変えなければならないような存在として扱っているために,法規範力の喪失に手を貸していることを考えてみても,この中途半端な状態は危険に思われます。それがプロレタリアートの一部に感染してしまったが今度はそうはいかないしそうさせてはならないことは言うまでもありません。
 しかし国連の活動というのはこの間の湾岸戦争や旧ユーゴの内戦への対応を巡って,アメリカが,仰るように,石油メジャーや軍需産業のブルジョアジーなどの利益を図っために,フランスなどがアメリカばかりが得をしているというので,つむじを曲げてしまい,帝国主義間の利害対立が露になったわけで,内部対立・矛盾を抱えています。ボスニア・ヘルツェゴビナ問題は解決などしていないし,米軍の空爆による劣化ウラン弾の引き起こしている放射線被曝問題などは実態調査すら進んでおらず,こうしたいずれ国際的に裁かれなければならない問題が残ったままです。健康人ももちろんですが,とりわけ全世界のガン経験者,白血病体験者などは,放射能汚染の問題については敏感に取り組んでいかなければならないし,そうした立場からの反戦運動というものも必要だろうという思いがあります。放射線被曝の人体に対する影響については,健康人を基準にしたデータであり,これには問題があると考えています。
 また脱線してしまいました。沖縄の基地撤去闘争が未分化であることは確かですし,またそれが一部で分化が鮮明になりつつあることも確かであり,それが矛盾として運動を展開させている段階であり,まだまだ止揚には到らない状態であると言えます。沖縄の米軍基地撤去闘争が,一部を除いて明確に安保廃棄を掲げていないのは確かですし,そういう人々に対して,安保廃棄を突きつけるというやり方では反発を買うだけかも知れないということは承知しています。拙稿では,安保反対という看板を下ろしたので,大衆的な運動の発展が可能になったのだといった類の話が,観念的な錯覚に過ぎないということを指摘し,そうした錯覚に陥っている政党として社会民主党を批判しました。もしこうした錯覚に陥っている人がいたら,それではアメリカという近代国民国家が自国の国益のために,戦争という手段を使うことは当たり前でしょうが,どうして他国の国益のために自己犠牲をすることを期待できるのでしょうか? と尋ねてみるとよいでしょう。日米安全保障条約での義務をアメリカが果たさなかったり,サボタージュした場合に,これを非難することはいくらでも出来るでしょうが,しかし義務の履行を強制できるでしょうか? いわゆる「北方領土」のソ連による占領をアメリカが密約によって容認したということをどう考えるのだろうか? 等々,これらのことを考えるならば,日米安保体制は極めて楽観的な信仰の上に築かれていると言わざるを得ないと考えます。アメリカは,これまでもこの体制を使って,自国の国益を図ってきたし,これからもそうするでしょう。朝鮮戦争の時もそうだったし,ベトナム戦争の時もそうだった。日米安保条約の仮想敵国−「有事」の対象であるソ連とは一度も戦ったことはなく,当時は日本に直接的な利害のあまりなかったベトナム戦争で,米軍に物資面などで協力した。それが需要をつくり出し,経済成長を促進させた,というのは確かです。それでは,これらのことで日本独自の立場はあるのでしょうか? 日本には日本独自の経済的利害は間違いなく存在していますし,時々,「本音」を語るとして小出しに出てきますが,それに対するアジア諸国や世界や国内での拒否反応が強いので,正面切っては打ち出しにくいというのが現状です。こうしたことから,日米安保体制はアメリカの国益を図る軍事実体を核にしていると考え,それは米軍基地施設そのものであることから,これを撤去する運動は,日米安保体制を足下から揺り動かす大衆運動であると判断し,これは米国の国益に対する挑戦であり,それを感じ取ったからこそ,「新ガイドライン」の策定を急いだと考えたわけです。もしこれが朝鮮半島だけを睨んだものとすると,朝鮮半島には米国に取って極めて優先順位の高い国益が存在していることになります。私はアメリカの国益ということで言えば,やはり中近東地域の石油権益は相当に重要だろうし,自国民を戦争に投入して殺すなり放射能まみれにするなり精神的にダメージを与えるなりしてまで守らなければならない利害となると,石油だろうと思うのです。イラクに埋蔵されている石油は国際ブルジョアジーのものだというブルジョア的共同利害のためにブルジョアジーが国際反革命として手を握りあっているのです。もちろん渋谷さんの指摘のように,どれが直接的契機かということは「新ガイドライン」の政治暴露にとって本質的な意味を持つものではないでしょう。私は渋谷さんが最後に読者からの意見を引いている政治暴露が必要であるということにまったく賛成です。これはおおいにやらなければならないと考えています。

 次に国連についてですが,国連が矛盾を抱えた存在であること,したがってそこに生成と同時に消滅の契機を含んでいることは言うまでもありません。私はそうした矛盾を以前にいくつか取り上げたことがあります。例えば,アメリカが自国の国益を偽装してアメリカ軍を「国連軍」に見せかけてそれを押し通していることやアメリカが他国のささいな軍備に対しては国連安保理などであれこれと大げさに問題にしながら,自国の軍備の縮小については最小限に止めようとしていることやいまだにせっせと政府が先頭に立って兵器の売り込みをやっていること,等々,です。国連の活動にわずかでも支障があるとなるとただちに武力行使をちらつかせる行為が国連の掲げるものと食い違っている。さて国連の抱える問題点を検討するなかで見逃せないのが,集団安保論で,これは国連創設に大きな思想的影響力を持ったと思われるアルバート・アインシュタイン博士の「国連」論と違う点です。アインシュタイン博士の場合,ソ連派とは違うタイプの社会主義者でしたが,明確に「世界連邦政府」を目指しており,国連もそうしたものとして構想されていた。地域毎に集団安保があったとしてもそれは過渡的なものに過ぎなかったのです。したがって,国連の構成は,各国・地域での直接選挙による代表の総会(これは世界議会と言っていいでしょう),国際紛争を裁く国際司法裁判所(これは世界裁判所です),そして執行機関である世界政府,そして世界軍,というものです。これは連邦制国家,ソ連邦やアメリカ合衆国の構成と基本的には形が同じです。ただしソ連邦の場合,少なくともレーニンは連邦制度を一歩前進ではあるが過渡的なものであると考えています。コミンテルンの場合,これは周知のことかと思いますが,世界党(コミンテルン)−世界赤軍という理念で始まった。しかしながらそれは挫折し,赤軍は国軍に改組されてしまい,コミンテルンはソ連邦という国家の下に従属させられてしまい,ついに7回大会をもって解散させられてしまった。世界党はついに消滅してしまったのです。さて現在の国連改革が世界政府の問題についてまったく無視して進められていることは周知のとおりです。しかし,理屈では,現在の国連の「連合」的性格は,世界統合への過渡的性格でしかないはずなのです。少なくともアインシュタイン博士はそう考え,だからこそ,まったく国連の利益のためにのみ働く国連軍を提案しているのですし,また国連の意志決定機関として各国・地域から直接選挙で選ばれた代表によって構成される総会−世界議会を構想の中心に置いているわけです。国連が軍事を安保理常任理事国の責任としていることは,公式上は,速やかに事態に対応するためという理由であり,これを総会の下に置くということについて原則上の理由があるわけではありません。
 これに対してコミンテルンの場合,各国・地域代表は,共産主義党・労働者党であり,後には,一国一党という原則になりましたが,初期の段階では,個人・小グループ,社会民主主義政党も参加が認められていた。こうした場合,この代表達が,自国の政府やブルジョアジーの利害をそうした場に持ち込む可能性は少なかったのですが,権力奪取した国では,国益と共産主義的利益の区別がなくなり,同一化してしまい,これが露骨にコミンテルンの場に持ち込まれ支配してしまった。国家の方は,国益として形成された利害を防衛し,この利益の受益者を特権層として保護し,共産主義的原則が要求している水準に前進するどころかこれをどんどん後退させてしまった。共産主義者とプロレタリアートがどちらを優先すべきかということについて迷いがあってはならないはずだと言えますが,現実には大ロシア民族主義,ロシア愛国主義,国家=官僚主義,その利益と特権のために,共産主義はどんどん後退させられた。そうした自然発生性に迎合していったわけです。例えば,フィリピンの共産主義者で反シソン派のイデオローグの一人であるソニー・メレンシオ氏の“NOTES ON RS'S ARETICLE REGARDINNG REVOLUTIONARY THEORY, STRATEGY, PERSPECTIVE AND ORGANIZASION”という論文では,スターリン体制下のソ連邦で早い時期に男女の平等化が離婚法の改悪,家事の共同化と託児所事業の後退等々が進められたことが指摘されています。こうしたことが早くから明らかとなっていたにも関わらず,これを根底的に批判し,これに取って代わる国際共産主義の発展はなかなか進まなかった。また脱線してしまいましたが,要するに国連を世界政府あるいは世界連邦政府への過渡的存在として捉えるか,これを永久のものと見るかによって,集団安保論も違った位置づけになるわけです。これはマルクスのカント批判である「カントはドイツの小邦分立状態を反映している」というテーゼで言うならば,現在の世界の諸国分立状態を良しとしたまま,これを保守するために,集団安保がその手段となることを理想とする考えです。対して,レーニンの考えでもあるいはマルクスの考えでも,基本的には,そうした状態は止揚されるべき状態であり,ただそれを帝国主義のように暴力や強制,隷属化などの方法ではなく,自由意志による諸民族の接近を図ること,そうした方策を促進する勢力としてプロレタリアートの国際的結合を想定しているわけで,そうした絆を立ちきろうとする民族排外主義や反動的愛国主義との闘争とその影響からのプロレタリアート大衆の解放という任務,そのような任務として,抑圧民族のプロレタリアートとして民族自決権の承認,「独立論」の無条件支持があります。
 これは国連にもはっきりと認められている権利ですが,しかしそれとは別に「先住権」という概念がなぜ新しく登場してきたのか,という問題が出てきています。「先住権」とはどのような内容の権利なのか,これと民族自決権との違いはなにか,そしてこれに対してプロレタリアートがどのような態度を取ればよいのか,等々の問題が新たに付け加えられており,現在までのところこれについてちゃんとした議論がなされていないように思われます。私は仮説として,「先住権」は,先住民の近代化以前の古代的な共産主義的共同体の権利であり,これを完全否定し進歩を誇ってきた近代ブルジョア社会を根源から批判する権利であり,マルクスがロシアについて認めた「ミール共同体」が共産主義の社会的基盤の要素となることを認めたのと同様に,根源的な共産主義的権利と考えています。これに対して近代資本主義はせいぜいそれを自治権の範囲に止めようとしている。等々,やや散漫な問題提起に終わってしまっているかもしれませんが,これで渋谷さんの批判に十分答えられたかどうか,ご検討下さい。これで一旦筆を置きます。

 具体的な問題として,拙稿では,いわゆる「フツーの人々」が沖縄の基地撤去の声に応えようと考えた時に(もっとも「フツーの人々」は今のところはこの問題をほぼ他人事としてしか考えていないでしょうが),日米安保はいらないと言い切ってしまえばすっきりするが,じゃあ日本の安全をどうするのか?ということに応えないと安心できないということに「観念的安保肯定」に転換しただけでは,一時しのぎにしかならないし,それは,人々に安全保障論議の当事者性を認識させられない話なので,応えたことにならないと言いたいわけです。米兵がどうして日本の利益のために,テキトウに死んでくれることを確実に期待できるでしょうか? 金をやっておけば雇い兵のように生きるか死ぬかという状況で戦ってくれるのでしょうか? 朝鮮半島有事に対する日本の利害とアメリカの利害は完全に一致するでしょうか? 両者の姿勢や態度には必ず差違がつきまとうし,温度差が生じるでしょう。生きるか死ぬかという状況でそうした問題はたとえ一時的には共同行動が上手く言ったとしても,中長期的には必ず問題になるに違いありません。例えば,現在,米軍が国連のためとしてイラク空爆を準備していますが(本稿執筆時),これは国連がアメリカに対しても要求している軍縮をサボタージュしていることを強く印象づけます。まだそんな大量破壊兵器をアメリカが大量に保有しているわけですから,これはアメリカが軍事大国たることの誇示です。これは国連の精神と矛盾します。米軍は国連軍とイコールではないのです。私の観点ではこういうことにいちいち区別を立てていくことが必要で,それもまた「平和と安全」について議論を深化させプロレタリアートの立場を画定していく過程に他なりません。ブルジョアジーの「リアリズム」(これは即物的立場でしかないと思いますが),これには政治を(というのは軍事は政治の延長なのですから)問題とし,そうした選択肢へと不可避に追い込まれていく必然性を明らかにすることとそうした隘路からの解放の道を探りこれを提起することで闘う必要があると考えます。
 『沖縄「自立・独立論」』については指摘のとおりで,お詫びし訂正したいと思います。これは自立論と独立論とを一緒くたに評価しようとしたことからする間違いでした。独立論については無条件支持です。「自立論」も「最も民主主義的な内容を持つ」ことになればそれは「独立論」に転化することに他ならないのですから。
 「本土」という言葉については,この言葉の持つ社会的な客観的な意味を,指摘のように,ヤマトによる沖縄に対する差別構造を反映している表現としてあることを認めます。したがって,お詫びと共に本稿における「本土」はすべて「ヤマト」に変更させて頂きたい。




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