『赫旗』−左京署名文章による批判に応えて
氷上 潤
158号(1994年10月)所収
I
『赫旗』(第167号/9月10日赤路社発行)に,「ブルジョア民主主義に解体され,反動的立場に転げ落ちる火花派」(左京 広 署名)という文章が掲載された.短い文なので,以下その全文を紹介し,検討を加えていくこととしたい.
「『火花』155号に『朝鮮民主主義人民共和国の核疑惑問題について』と題する評論が掲載された.
この評論は,米帝を頭目とする帝国主義列強の共和国に対する恫喝を『交渉』と美化し,共和国については,『北の条件をのまないと世界支配秩序をがたがたにするぞと脅』(*注参照)かしていると批判している.この評論は,米日帝国主義による朝鮮半島におけるブルジョア民主主義的覇権拡張・戦争挑発策動の擁護を隠された政治基調としているのである.
共和国の体制について,火花派の諸君が『共産主義者』の立場から意見をいうのは必要なことであろう.しかし,ブルジョア民主主義者としてではなく,共産主義者として政治主張したいのならば,この時期には主として,米日帝国主義の危険な策動を批判すべきだったのではないだろうか.『共和国の体制批判』に主要な精力を注ぐのは間違いだった.『多国籍軍』がイラクを爆撃している時にイラク批判に励んだりする態度と同じ誤りである.ましてやその批判が,米日帝国主義の擁護となっているようでは論外であろう.
これと同じ誤りが,同じ号の <投稿> にも見られる.われわれの前にあるのは,確かに『複雑に絡み合った錯綜した現実』ではある.だが,そうであるがゆえに <投稿>の筆者のように <敵−味方> を曖昧にするのではなく,誰が当面する主要な敵であり,また誰を味方にしなければならないかということについて,むしろ一段と意識的にならなければならないのである.共和国の体制問題については,民族自決権の支持を前提に語るべきことである.そうしないとき,善意によって地獄への扉が開かれることになろう.」
(*注)この『火花』からの引用の部分は,正確には,原文では「北の条件をのまないと世界支配秩序ががたがたになるぞという『脅し』」という記述であり,若干ではあるがニュアンスの違いが生じている.今回の場合,悪意をもった意図的なものではないだろうが,原文を尊重せず,軽く扱ったということは否定できないだろう.これまで左翼運動の中で,しばしば批判対象の主張をねじ曲げ,矮小化して取り扱うということがなされてきた経緯を考えるならば,引用にあたっては原文をそのままの形で抜粋すべきである(明らかな誤字・脱字の類いは除いて).この点,議論する上での最低限のルールとして,赫旗派の諸君にも意識的であってもらいたい.
II
この文章の大きな特徴をなすのは,「民族自決権の支持」というスローガンを形式的・抽象的に取り扱っていることであり,しかもそのことを,狭く立場化していることである.この点,『赫旗』第166号「金日成主席の逝去に思う」という文章でも,「われわれは朝鮮民族の自決権の支持を何よりも優先しなければならない」「朝鮮民族の自決権支持を民主化に優先する態度の選択は,意識性を要することである」と語られている.
つまり,民族自決権を他の民主主義的諸権利から区別し,何か特別な,何よりも最優先すべき権利として取り扱うべきだと主張しているのである.赫旗派の諸君はこのことを,何の論証も抜きに自明のこととして述べているのだが,しかしこうした見解は,マルクス・レーニン主義者にとって,決して自明のものではなく,赫旗派の特徴的な党派性となっていることを自覚すべきである.そしてそうした赫旗派の党派性の意義を説明・論証することなしでは,赫旗派は単に,特異なブルジョア民主主義者として,頑なな民族主義者として振る舞っているにすぎない,ということを自覚しなければならない.
赫旗派と違って,われわれは民族自決権をめぐって,マルクス・レーニンの見解の側に立っている.すなわち,民族自決権は,もろもろの民主主義的諸権利の一つである,ということであり,自決権それ自体はブルジョア的権利の一つである,と考えているということである.
レーニンの見解を紹介しておく.
「自決権は民主主義の諸要求のうちの一つであって,それは,当然に,民主主義の一般的利益に従属させられなければならない」 (国民文庫『帝国主義と民族・植民地問題』−「社会主義革命と民族自決権」.p23)
「自決をも含めた民主主義の個々の要求は,絶対的なものでなく,一般民主主義的な(今日では一般社会主義的な)世界的運動の小部分である」 (同前−「自決に関する討論の決算」.p153)
III
したがってわれわれは,「民族自決権」を尊重することで,その他の民主主義的諸権利を軽視するという態度は間違っていると考えているのであり,「民族自決権」を求める民族運動に対しても,その他の諸権利を求める民主主義運動と同様に,プロレタリアートの階級的見地−しかも一国的でない国際的なそれ−に立って,判断し,取り上げていくべきだと考えている.
われわれは“民族問題”をめぐって,何か特別なことを主張したいと考えているわけではない.ただ,レーニンの態度を継承する位置に立っているということにすぎない.再び,レーニンの見解を紹介しておく.
「プロレタリアートは,民族間の同権と民族国家にたいする平等の権利をみとめつつも,あらゆる民族のプロレタリアの同盟をもっとも高く評価し,労働者の階級闘争の角度から,あらゆる民族的要求,あらゆる民族的分離を評価する」(国民文庫『民族自決権について』.p110.下線は引用者,以下同じ)
「ブルジョアジーは,いつでもみずからの民族的諸要求をまっ正面にかかげる.ブルジョアジーは,それを無条件にかかげる.プロレタリアートにとっては,民族的要求は,階級闘争の利害に従属する.ブルジョア民主主義革命を完成させるのが,ある民族の他の民族からの分離であるか,それとも他の民族との同権の状態であるかを,理論的に前以て断言することはできない.このどちらのばあいにおいても,プロレタリアートにとってたいせつなことは,自分らの階級の発展を保証することである.ブルジョアジーにとってたいせつなことは,『自分らの』民族の任務をプロレタリアートの任務よりも上におくことによって,プロレタリアートの階級の発展をさまたげることである.それゆえ,プロレタリアートは,自決権の承認にたいし,いわば消極的な要求をするにとどめ,どの民族にたいしても他民族を犠牲にして,なにものかをあたえることをうけあうようなことはしない」(同前.p108)
「後進諸国のブルジョア民主主義的解放運動を共産主義の色彩で粉飾することにたいし,断固として闘争しなければならない.共産主義インタナショナルは,植民地と後進諸国のブルジョア民主主義的民族運動を支持しなければならないが,それは,すべての後進諸国で将来のプロレタリア政党――それは名前だけが共産党というのではない――の要素が集団をつくり,彼ら自身の任務,すなわち,その民族内のブルジョア民主主義運動と闘争する任務を意識するように教育されるということを専ら条件としている.共産主義インタナショナルは,植民地や後進諸国のブルジョア民主主義と一時的な同盟をむすんですすまなければならない.しかし,ブルジョア民主主義ととけあってしまうべきではなく,プロレタリア運動がたとえ芽生えの形態であろうとも,その独自性を絶対に維持しなければならない」(国民文庫『帝国主義と民族・植民地問題』−「民族および植民地問題に関するテーゼ原案」.p193)
こうしたレーニンの見地に立つならば,次のような朝鮮半島の現実が考慮されなければならないはずだ.すなわち,朝鮮労働党・朝鮮民主主義人民共和国政府は,“プロレタリアートの階級の発展”を保証していない.それとは反対に,“プロレタリア運動の発展の芽”の一切を摘み取ってしまおうとする支配体制を築くに至っており,“プロレタリア政党の要素が集団を作る条件”を徹底して抑圧している.朝鮮労働党・共和国政府は,他でもなく「反米自主化・朝鮮の統一」のスローガンの下に,このような労働者・勤労大衆への支配体制を−党・国家官僚の支配特権を維持・貫徹するという利害のために−構築してきたのであり,さらに引き続き存続させていこうとしているのである.
赫旗派の諸君は,プロレタリアートの階級闘争の見地ではなく,“民族運動”一般の見地に立つことで,こうした共和国の具体的現実から目を背けているのである.
われわれは,赫旗派のように「国連−国際帝国主義の圧迫に抗する朝鮮民族の民族的抵抗に対しては,それがどの階級・いかなる勢力により組織されたものであっても支持しなければならない」(『赫旗』第166号「金日成主席の逝去に思う」)という没階級的な見地に立つことはできない.われわれには,共和国における階級闘争の現局面−諸階級・諸勢力の相互関係を分析することなしに,プロレタリアートの階級闘争の戦術を論じることなどできないのである.
「共産主義者としてのわれわれは,植民地諸国のブルジョア的解放運動が現実に革命的であるばあいにだけ,またわれわれが農民および広範な被搾取者大衆を革命的精神で教育し組織しようとするのを運動の代表者が妨害しないばあいにだけ,ブルジョア的解放運動を支持しなければならないし,また支持するであろう」(国民文庫『帝国主義と民族・植民地問題』−「民族および植民地問題委員会の報告」.p198)
ここでレーニンが提起している中の「植民地諸国のブルジョア的解放運動」の部分を,「被抑圧民族の支配勢力」と置き換えても,レーニンが言わんとしていることの中味を損なうことはないであろう.赫旗派は,被抑圧民族の解放運動をめぐる自らの主張が正しいと考え続けるのであれば,このレーニンの主張に対して,はっきりと“間違っている”と言い切らなければならない.
IV
もちろんプロレタリアートにとって,民族的抑圧・被抑圧の関係を踏まえることは絶対に必要なことだ.ただし,それはプロレタリアートの国際的統一のために必要なのであり,赫旗派のように共和国における抑圧・被抑圧関係を覆い隠すようなものであってはならない.「われわれは,圧迫民族の特権や暴力にたいしてたたかうとともに,われわれは被圧迫民族のがわの特権にたいする志向をも,けっして見のがし」(国民文庫『民族自決権について』.p111)てはならない.
「当面する主要な敵」云々という戦術観−反帝力学主義にいまだ深くとらわれている赫旗派の諸君,諸君らは自らが何を言っているのか,その現実的意味を理解しなければならない.諸君らは,共和国の労働者・勤労大衆に対しては,反帝闘争のために,朝鮮労働党の支配・抑圧を受け入れよ,朝鮮労働党の下に“民族的”に団結して立ち上がれ,プロレタリアートの階級的利害を放棄せよ,でなければ敵(帝国主義)を利することになるぞ,と言っているのである.そしてまた,日本のプロレタリアートに対しては,共和国社会の現状に目を向けるな,党・国家官僚による苛酷な収奪を受けているプロレタリアートの状況に無関心になれ,と言っているのである(このことは,排外主義と闘争する上での,いわば最大の武器を放棄せよ,と言っているに等しい).
このようなことを客観的に意味する宣伝・扇動を行うことによって,どうして「朝鮮民族の日本人民への歴史的不信を取り除き,日朝(韓)プロレタリアートの階級的団結を築く」(『赫旗』第166号「金日成主席の逝去に思う」)ことを展望できるだろうか.実際には,赫旗派は,日本のプロレタリアートと共和国のプロレタリアートを遠ざけていく位置に立っているのである.
赫旗派の諸君は,反帝力学主義の見地に立ち続けることの反動性にそろそろ気づくべきではないだろうか.そして,階級的見地を欠いた形式・抽象として「民族自決権」を取り扱う観念的な政治世界から抜け出し,共和国社会に現実に生き,生活する勤労大衆の置かれた状況に目を向けていくべきである.
V
この間の朝鮮労働党による米日帝国主義との種々の駆け引きは,もっぱら共和国における党・国家官僚の支配特権の維持という利害からなされているにすぎない.かつてレーニンがブルジョア民族運動(−民族革命運動)を支持したのは,その運動の発展の中に,プロレタリアートの階級的成長を促していく条件を見て取ったからである.しかし,われわれは今日の朝鮮労働党の反帝国主義に,プロレタリアートの階級的成長につながる進歩的性格を見て取ることはできない.それどころか,われわれは,共和国におけるプロレタリアートの階級闘争の今日的発展のためには,朝鮮労働党の支配体制の打倒が不可欠だ,と判断しているのである(その意味で私は−現時点では必ずしも火花派としての共通の確認事項となっているわけではない−,今後,帝国主義−国連が民主化・人権擁護の要求をもって介入を強めていくといった局面が生じた際に,共和国のプロレタリアートが,そうした情勢を自らの政治的自由の拡大のために,プロレタリアートの階級的発展のために,最大限に活用するという戦術をとることは,判断の幅としてありうることだと考えている.もちろんそこにおいて共産主義者は,ブルジョア民主主義,国連政治の欺瞞を暴露することを決して怠ってはならないが).
赫旗派の諸君は,われわれが,共和国におけるプロレタリアートの階級闘争の発展を支持し,それへの連帯を日本のプロレタリアートに呼びかけ,その見地から共和国の支配体制を批判することが,「民族自決権」への侵害になると考えているようだ.もしそうだとすれば,赫旗派は民族自決権の問題について特殊な把握をしていることになる.
レーニンは言う.「マルクス主義者の綱領における『民族の自決』とは,歴史的経済的見地からいって,政治的自決,国家的独立,民族国家の形成以外のどんな意味をももちえないということである」(国民文庫『民族自決権について』.p93).これに対して赫旗派の諸君は,「民族の自決」を,内政不干渉といったレベルで把握しているのではないのだろうか.このあたりについては,ぜひ赫旗派の諸君に展開してもらいたいところである.
ともかく,赫旗派の「民族自決権支持」の立場化は,実際の階級闘争の攻防においては,プロレタリアートの運動を民族的・一国的枠組みに押し込める反動的役割を演ずるものとなっていることは間違いない.
以上,赫旗派からの再度の意見表明を期待し,発展的な議論関係が成立することを希望して,赫旗派(左京 広氏)からの批判へのとりあえずの返答としたい.